エクスペリメンタルであること→エレガントであることの変遷としての1st v2
リリースがなぜこうも出来なかったのかの説明
ユース的なものへの対峙
ライブ活動
滑り散らかし
速さへの展開
ここは割愛する,2nd時に話す
自分らの作品の中に潜むユース性
ライブをする中である程度滑る
滑りを要素分解する
ライブ演奏することを念頭に置いていないこと
ブッキングされた際の他のアーティストとの相性問題
正しく自分たちのやりたいことが伝えられていない可能性
高火力なアーティストに確実に負ける現象
ある種の共有しやすい概念を持っているか持っていないか
共感とかではない(もちろんそれも含まれるが)
ある特定の振る舞いや態度への共鳴だったり
ライブ活動を経て自分たちのアプローチを変化させる必要があるのかについて考える
捉えやすいフックやある程度スタティックなリズムを取り入れるかどうか
捉えやすいこと、それ自体を悪とは見做していない
どちらかというと無条件に捉えやすい方が音楽という生産の上ではベターである、という意識を問題視している
自分たちがやりたいことの上で 捉えやすくないことそれ自体が価値を持っていた
もっと聞かれてほしい、と思うことと制作時点で聴衆の期待に歩み寄るかどうかは全く別の話としてある
ユースカルチャーという言葉をそのあたりの頃によく聞くことがあったし、ある意味ではそのユースカルチャーが存在する領域に放り込まれてもいたが、自分らが全くそのユースカルチャーに対するリスペクトがない
これははっきりとそう書いても良い気がする
というかリスペクトがまず持ちようがない
何故なら自分たちはそのユースのカテゴリの中にいない(年代的にもカルチャー的にも)
まあもちろん君たちの言ってることもわかるよ的なおじさんムーブをしても構わんと言えば構わんが、理解ムーブをしてくる年長者みたいな存在のことを酷く嫌っていたし(今も嫌っている)実際問題君たちのやりたいことは既にわからん、という感じなので潔くそこは捨て去りたい
それにそもそも若さみたいなものを忌避してすらいる
単純にフェティッシュな問題として若い音像より年取って枯れた音像の方が好き
ユースカルチャーについて考える中で、そもそも自分たちはユースに寄れないにも関わらず、ユース的なものが立ち上がっている瞬間があることも感じた
これは完全に課題で、これをどうにか自分たちの音楽から廃絶したい
ユース性を認識したことによってエクスペリメンタルbutユース的なものが存在し得ることが分かる
エクスペリメンタルでは抽象性が高い
じゃあどうする?となり自分達が思うエクスペリメンタルの再定義を図る
その結果の方針として大きな限定性と小さな限定性を設けることをが必要であると判断した
大きな限定性の話
当初はある種のハイソ性みたいなところに着目していたのだが、一般にハイソなものとして受け入れられているものの中にも全く容認できない作風があることに気付いた
ふとエレガントという単語が降りてきて、それが自分達の要求する音楽の美的な態度として最も明確なものであるという直感があった
ただしエレガンスに関する内容はそれだけでもかなり膨大な内容になるのでここでは詳細な説明は避ける
一旦の理解として、所謂ファッション誌とかで使われるような意味でのエレガンス、雑な解釈をするとある種の洗練性についての話ではなく、自分らが独自に開発している美的な言語のようなものであると思ってもらって良い
結果的に言えばエクスペリメンタルであることはエレガンスの構成要素の一つであることは明確になったものの、それ自体では自分達の理想とする作品像にはたどり着けない、言ってしまえば微弱な概念であることが判然とした
小さな限定性の話
エレガンスとは別の軸として、作品単位で何かしらのパースペクティブを持つことが必要であると考えるようになった
特に1stの作品は楽曲単位でパースペクティブがバラついていたことだったり、全体としてのエレガンスにたどり着けているのかどうかが怪しい側面があるということに気付いた
が、パースペクティブについては長くなるのでここでは詳細な説明は割愛
最終的な話で言うと、1stが抱えた課題は以下の三つ
2022~3の間に出演していたライブや見に行っていたライブなどを通してある種自分らの曲想と市場との隔たりのようなものを感じており、すぐさまリリースしたい!と思える状態になかった
多少ライブがうまくいかなかったことも相まって自己肯定感的なものが削がれていた部分も否めないのだが、今この作品を出すことによって何かポジティブな期待効果が生まれるのか、というとそうでもない気がしていた
別の観点に立つと、自分達の関心の旬のようなものが1stの曲想から過ぎ去ってしまっており、それも相まって自信を持って世にこの作品を送り出す準備が整えられなかった
とはいえ言ってしまえば出すだけであることも事実
おまけに自分らが市場との連続性をそこまで意識しなくて良い訳で、
そもそも自分らが定義したエレガンスの観点にそぐわない作品である可能性があった
これについては半分正しく、また半分間違っている
少なくとも自分達が目指すエレガンスの断片は確実に備えている
のだが、全体としては徹底されていない、それは確か
それはそれとして、本作があるからこそ自分達が目指す方向性についてのある種の説明が果たされるとも思える
のだが、結果的にはリリースに至ることになる訳で、それについては次章
1st→バージョニング→2ndの流れで説明することによって何かが果たせるのではないかと思うようになった、的なこと
前章にて『Double Bind』というタイトルがどのような経緯でつけられたのかについての説明を行った。実際このタイトルには幾らかネガティブなニュアンスだったりネガティブなトーンが含まれているのは事実である。しかしそもそもどのようにして自分達の作品全体に対するネガティブなスタンスが形成されたのかについて本章は説明していくと同時に、それを我々がどのようにして乗り越えようとしているのか、についても説明していく。
そもそもとして、我々の楽曲が持つ構造的特性それ自体がやや特異なものであることから、自分達の音楽に対してどういう評価を持ち込むべきかが見出せないことが度々あった。そのこと自体はむしろ良いことであると判断していたのだが、一方で2022年から2023年にかけて幾つかのライブイベントに出演した際に、観客と上手くリンクできなかったことが度々あり、何かしらの意味での疑問を持ち始めたことを覚えている。
もちろんその上手くいかなさの原因の全ては我々の楽曲自体にあるものではないと当時も整理している。パッと思いつく限りでも
ブッキングされた他のアーティストとの音楽的関連性に乏しい
エクスペリメンタルなもの,かつそこに高揚感がないものとの向き合い方が分かりづらい
我々のライブセットの構築技術が低い
我々のライブパフォーマンスの能力が低い
などが理由として挙げられる。しかしそれはそれとして、比較的パフォーマンス自体も上手くいき、かつブッキング自体も良かったイベントであっても何かがハマった、というような感覚は得られない場合が多かった。それこそ前章でも触れた様にある程度ポップミュージックとしてのギミックを恣意的に組み込んでいるにも関わらず、である。
特にそういった実感が最も深かったのはヒップホップ系のアーティストが多く出るイベントに出演した際で、正味サブベースの火力を前にして自分達の踊れるかどうかもわからない様な音楽が太刀打ちすることはなかなかどうして難しい、と率直に思わされた。これらの実感を基に、何かしらの形での方向転換をする必要性を感じ始めた。大まかに2022年の末頃だと記憶している。
実のところ我々としてはポップなフォームを持った音楽それ自体を忌避する気持ちはそこまでなく、まあ強いて言えば新規性のないポップミュージックというものの価値は全く理解できないものの、音楽自体がポップセンスを保有していること自体は積極的に取り入れるスタンスではある。そのことからポップミュージックとして機能する楽曲的な部分を(ライブ/音源を問わず)増やし、もう少し聞き手が解釈しやすい状態を作るべきではないかとまず考えた。もう少し端的に言えば、スタティックなリズムや記憶しやすいメロディを中心に据えた楽曲を作り、それをアンセム的に機能させることによってライブをどうにかこうにか乗り切れるものにする必要があるのではないかと考えた。
そういったことを考えていた当時、ユースカルチャーという言葉が(少なくとも自分の観測範囲の上では、だが)主にインターネット上で散見される様になった。実際ユースカルチャーに括られるアーティストの表現はそれまでのインディーシーンとは異なる態度やフィールを持っていて、そこに何かしらの面白さというものを感じることにも納得があった。のだが、自分がそういったフィールを取り入れる、ということはどうにも出来ないだろうという漠然とした体感があった。整理していく中で分かったこととして下記が理由として挙げられる。
そもそもとして自分達は現代におけるユースではないこと
それでいて非ユースである自分が若者の表現に理解を示すこと、を超えて応用しようとすることに何とも言えない悪性を感じること
それこそ自分が明確に若者であった頃、時代背景やコミュニティが変わればリアリティも千差万別に変容するのが当たり前なわけであるにも関わらず「君の言ってること分かるよ」的な妙な共感を持って擦り寄ってくる年長者のスタンスに非常に嫌悪感を持っていたことをまず思い出した。更に言えば、自分が若者だった頃から今にかけて、所謂若者の表現に強く揺さぶられたことがあまりなかった。これは単なるフェティッシュな問題でしかないが、比較的成熟したアーティストの音楽を好む傾向にあった。
この様にして考えていく中で話がやや脱線してくるのだが、自分らの音楽に何かしらの未熟さが常に備わっていることに気付き、議論が推移する様になった。最早ライブどうこうのような話は忘れ去り、自分らの音楽に潜むユース性をいかに消し去ることができるのだろうか、という問いが生まれた。この問いが自分らにとって非常に大きな転換点となるテーマだったように思う。このテーマによって、争点が概念的な問題ではなく美学的な問題へとシフトした。
ぞのことによって、そもそも我々がよく口にしていたエクスペリメンタルという言葉の焦点の曖昧さに気付くことになる。もちろんのことながら、エクスペリメンタルであればなんでも良いわけではないことは認識していたものの、エクスペリメンタルがやや口癖化していて、何のためにエクスペリメンタルである必要があるのかが不明瞭化していた、言ってしまえばエクスペリメンタルであることそれ自体が目的化していることに気付いた。
そのような考えを経て、結果論としてエクスペリメンタルであることを目指す様になった。そして結果エクスペリメンタルである、ということを必然化させるためのパースペクティブを持ち込むこと
その過程でそもそもどのような形で実験的な振る舞いがあったとしてもエレガントでなければならない、と判断する様になった。ここでいうエレガンスは所謂洗練性とは異なる概念として我々は扱っているのだが、エレガンスに関する議論はそれだけで膨大化してしまうので本連載では丁寧に扱うことは避けたい。いずれ別の機会にそれは丁寧に扱うとして、少なくとも本連載の中ではエレガンスという概念が我々にとって非常に大事であり、かつそれが我々にとっての独自の美学体系を持ったものであることを理解していただければ結構である。
さて、話は逸れたがエレガンスを中心に据えた設計をすることに方針を転換した際、自分達が音楽的に可能になる範囲は実際のところかなり広がった。そして同時に、エレガンスを基準に『Double Bind』を見た時に、多くの曲はエレガンスが断片的にしか発露しておらず、エレガントにするためには抜本的な変更を加える必要があった。
前章の内容と併せてまとめると1st、並びに我々が抱えた課題は以下の3つになる。
1つ目はライブなどでの体験を通して我々の作った音楽は実際的に戦えるものになっていないこと。
2つ目は音楽的な発想の土台が転換してしまったが故に自分達の現在地とアルバムとの齟齬が大きくなってしまったこと。
最後に、それを抜本的に再構築するほどの気力も体力も残っていなかったことになる。
これまでの1,2章にて我々がどういった困難や課題に対峙し、その結果リリースに2023年あたりまで至れなかったのか、について話してきた。結果今回のリリースに至っていることからも分かる通り、ある意味ではこれらの課題を解消することなく乗り切ることになったのだが、それについてはこれから公開する3,4章にて説明していこうと思う。
最終的な話で言うと、1stが抱えた課題は以下の三つ
2022~3の間に出演していたライブや見に行っていたライブなどを通してある種自分らの曲想と市場との隔たりのようなものを感じており、すぐさまリリースしたい!と思える状態になかった
多少ライブがうまくいかなかったことも相まって自己肯定感的なものが削がれていた部分も否めないのだが、今この作品を出すことによって何かポジティブな期待効果が生まれるのか、というとそうでもない気がしていた
別の観点に立つと、自分達の関心の旬のようなものが1stの曲想から過ぎ去ってしまっており、それも相まって自信を持って世にこの作品を送り出す準備が整えられなかった
とはいえ言ってしまえば出すだけであることも事実
おまけに自分らが市場との連続性をそこまで意識しなくて良い訳で、
そもそも自分らが定義したエレガンスの観点にそぐわない作品である可能性があった
これについては半分正しく、また半分間違っている
少なくとも自分達が目指すエレガンスの断片は確実に備えている
のだが、全体としては徹底されていない、それは確か
それはそれとして、本作があるからこそ自分達が目指す方向性についてのある種の説明が果たされるとも思える
のだが、結果的にはリリースに至ることになる訳で、それについては次章
1st→バージョニング→2ndの流れで説明することによって何かが果たせるのではないかと思うようになった、的なこと
1stの課題は美学的な態度を副次的な問題として据え置いていた、